「この国に20年も住んでるのに、まだ言葉がぎこちなくて外国人の癖が抜けていない」
世界の「メルティング・ポット」として広く知られているアメリカに住む者は、恐らくどんな国の人よりもよく移住民の英語学習者と接することが多いのではないでしょうか。それだけに上記のような例はアメリカ人にとってどこにでも見つかる、もはや驚くに足らない話ですね。私も例外ではありません。何しろ、両親がそれに当てはまるのですから。専業主婦の母はともかく、父は20年以上アメリカでソフトウェア・エンジニアをやっていて、それだけに英語の上級者でありながらも、お世辞にもネイティブに匹敵するとは言えません。文法といい発音といい、コミュニケーションの妨げにこそならないものの、どれも英語のネイティブ相手なら一瞬で非ネイティブのものだと見抜かれるでしょう。
誤解のないように言っておくけれど、私は決してネイティブでない言語能力を見下しているわけじゃないです。また、コミュニケーションを取る分には問題ないという程度の実力をよしとし、ネイティブレベルを目標としない人に対して異議を唱えるつもりもありません。外国語を学ぶ理由は三者三様、十人十色。寛容さにあふれているこのご時世では、ネイティブレベルにまでなる必要性はないし、そもそもその「ネイティブレベル」の定義についての議論は後を絶たない。私はあくまで一言語学者として言語習得の極限に興味があるにすぎません。
では、私みたいな本気で外国語においてネイティブレベルになろうとする物好きな人は、一体どうすればいいのでしょうか?その問題に関するすべての意見を書物に記したらきっと図書館一つを丸ごと埋め尽くすのに十分な量になるに違いないが、父のような例にも説明がつくような、とある説について最近よく考えるようになったのでここで紹介しようと思ったんです。それが、この投稿のタイトルとなっている「言語習得は帰属意識」なのです。
例によってこれは言語学者のスティーヴン・クラッシェン氏を通して知った説で、「帰属意識」というのは彼の言葉「club membership」(団体の構成員であること、また、その地位・資格)をもtにした拙訳である。つまるところ、人はわざとにせよそうでないにせよ、自分の所属している「クラブ」を気にして話し方などを調整したり、本当は習得しているはずの能力を発揮しないことがあるんです。日本語で例えると、とっくに標準語を習得済みの関西人が、関西人としてのプライドの表れとして関西弁をいつまでも使い続ける、というようなものです。また、日本における「ウチとソト」という概念もこれによく似ているなと思います。「ウチ」はネイティブスピーカー、そうでない者が「ソト」。その線を越えてネイティブの仲間入りを果たしたいと思う人もいれば、ネイティブじゃなくても自分らしいと感じられるならそれでいいやと思う人も当然いるわけで、そして「帰属意識」説によるとその個々の考えが、その人が最終的にどんな言語能力や喋り方を発揮するのかに影響するのです。
よく考えてみたら、皆さんも思い当たるところがあるのではないでしょうか。子供が同級生の子に変なイントネーションをからかわれたり、上京してきた田舎者がそれを周りに悟られぬように方言を隠そうとしたり。誰もが切に願うでしょう。馴染みたい、よく思われたい、受け入れてもらいたい、と。特に子供は周りの人の考え方や話し方に食らいつく強い傾向があって、簡単そうに母語を習得することができてしまうのはだからではないかと、私は考えるんですよね。更に憶測を重ねて言わせてもらうと、それはちょっとした自然淘汰の働きによって大昔から受け継がれてきた、人間という社会的動物としての生存戦略なのではないかと。
生存戦略、しましょうか。
憶測が不服ならば、実際に出ている研究結果によると、人間は無意識に相手に合わせて仕草・姿勢・話し方・言葉遣いなどを真似ることがあるし、そんな風に合わせられる側も好感度が上がるのだそうです。私自身もこの現象に覚えがあります。高校の頃、社会科の先生に感化されて授業のプレゼンで話し方を真似てたことがあって、今でもそのときの様子をよく覚えています。
外国語を習得することは、あらゆる新しいこと、新しいものに出会えるチャンスです。新しい自分自身にさえも…そう、私は思うんです。だから私個人としては、日本語を習得するからには自分の中に潜んでいる日本人を見つけ出してやるというぐらいの意気込みで挑まなくてどうするんだって思いますよね。だけど、それは別に日本人になりたいとか、日本人に認めてほしいとか、そういうことではなく。例えるなら、私は言語を音楽みたいに思っていて、それで同じ日本語という楽器を操る者として、できる限り日本人という最高の奏者と同じ美しいメロディーを奏でたいと思っています。そして自分が納得するまでその音色を、図々しくも追い求めるでしょう。同じステージに立っていると、立つ権利があると、そう信じて。結局はただの自分勝手な美学にすぎないけれど、そういう意味では私は確かに日本人に対して帰属意識を持っていると言えるでしょう。その勝手な美学とともにどこまで行けるか、正直まだわかりません。でも、これからも付き合っていくつもりです。その終点に、心の震える音楽があればいいなと思いながら…