言語学習者は猫である

この投稿はJournalyにも掲載させていただきました。

少し、猫の話をしましょう。

この間「同居人はひざ、時々、頭のうえ。」という漫画作品のアニメ化を見ました。猫との生活を題材とした作品なんですけど、中にはこういう展開があります。主人公の朏素晴(みかづき すばる)が拾った猫に陽(はる)という名前を付けてあげたものの、ご飯の時以外にその名前をあまり呼ばないせいで、陽はそれをご飯の合図と勘違いしていました。いずれその勘違いは誤解を招き、そして陽の弟の指摘によって解かれる…という流れになってるんです。

飼い主がご飯の時にしか猫の名前を呼ばなくてご飯の合図と勘違いされてしまう…よくあることだと聞きますけど、ここでひとつ質問です。仮に、飼い主がいつまで経ってもご飯の時にだけ猫の名前を呼んで、猫もまたそれをご飯の合図と勘違いしたままだとします。飼い主と猫はその名前をそれぞれ認識して、特に困ることなく生活を送っていきます。この状況には、果たして問題はあるのでしょうか?認識が間違っても、もし言動からバレようがないなら、その認識は本当に間違いなのでしょうか?

言語に対する認識は人それぞれです。人の脳内を直接に覗いてその認識を確認することができない以上、自分の認識をより正しくするには他人の言動を観察して、認識を適切に調整していくしかありません。現に、世界中の赤ちゃんはそうやって母語を獲得しているんですしね。

もし自分の間違った認識で困ったことがなければ、その認識はある意味では間違っていない。困ったことがないということは、その認識が役に立ってるということですから。逆に言えば、自分の認識が役に立たない場面に直面することこそが上達のコツとも言えます。さらに言えば、そういう場面に直面しないことにはそのまま認識が定着してしまって上達できなくなります。しかし心配しなくても、その言語で経験を積み重ねていけば、間違った認識には気づかされざるを得ないでしょう。そのたびにその認識は自ずと修正されて、正しい認識だけが定着していきます。言語の分量から考えれば、やはりインプットが一番の方法でしょう。

当たり前のことですけど、上達は結局本人次第、ということなんです。自分のレベルに満足している限り、うまくなりません。だから、たくさん読んで、たくさん聞いて、色んな場面を経験して、常に好奇心を持って自分の理解を試して、うまくなりましょう。

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